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大雷音寺日記ログです。
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すまん、長いヨ。

18歳の頃。
静岡県は伊東の競輪場でガードマンをやっておった頃。
某少年誌や某大物漫画家のスタジオに、アシスタント志望で伺ったコトがある。

親類に「漫画家にしてやる」とそそのかされ、私は言われるがまま彼に任せていた。
いろんな方面にツテが色々ある人で、ガキだった私はただ従っていればいいのだと思いこんでいたのだ。

持ち込み用の原稿は描いたが「そんなのコピーでいいんだよ」というのを真に受けて、漫画の神様と言えるO・T先生のプロダクションにコピーを持って行くという愚考を犯す。
漫画家志望にとってコピー厳禁と言うのは知ってたはずなのに、親類の言葉を信じ、私は彼に連れられて神様のプロダクションへ足を運んだ。

「何をしたいのかわからない」

受け付けてくれたプロダクションの人の言葉だが、まさにその通り。
終始やわらかな物言いで面談は終わったが、ようするに門前払いに近い。
だが私の事とは関係ない話題で、受付の人と親類との雑談は弾んでいた。

「菓子折りが効いたな」

と、親類は後で言ってたが、その時にこの人のレベルを認識するべきだった。
必ずしも漫画への愛を理解しているわけではなかったのに。

別の日に、今は無きなんとかキングという少年誌の編集者との面談。
生原稿を持っていったが「……難しい漫画だね」と言われる始末。
ちなみにギャグ漫画。
「線と線は繋ぎなさい、見る人が不安を覚えないように」とのアドバイスをいただいたが、なるほどと思った。
しかし原稿は紛失、戻って来なかったところに、当時のええかげんさを感じる。

後日、更に面談は続く。
神様とは違う、もう一人の漫画家レジェンドS・I先生のプロダクション。
この時も、別の生原稿持参。

待合室にいる時、アシスタントらしき人がお茶を運んできてくれた。
その時に、やっと事の重大性に気づいたのだ。
漫画家を目指してもアシにすらなれず、夢破れていく多くの人々がいるというのに、自分は人任せのコネクションで何の努力もせずここまで来てしまった事に。

足が震えて面談どころではなかったのだが、S・I先生直々に会ってくださり、漫画のアドバイスもいただいた。
SFと言えど突拍子もない造語は避け、広く人々の知ってるものを小道具に使うなどなど。
今のゲームやアニメのライターに聞かせてやりたいセリフだな。
私は終始うつむいて「はい」としか言っていなかった。

S・I先生は私をスタジオに迎え入れてくださるつもりだったらしい。
しかし、私は断ってしまった。
自分の足で歩いて来たわけではないのに、ここにとどまる事などできなかったと考えてしまったのだ。
今思えば本当に青い。
ズルでもなんでも、目の前のチャンスは生かすべきだったのにね。

「フラれたのは初めてだよ」
と、後で先生は言っていたらしい。

こうして自分の漫画道は終わった。

その後、伊東より東京へ上京した私は、働きながら原稿を描いてどこかに応募しようと性懲りもなく考えていた。
が、世間の厳しさや体力の限界に打ちのめされながら、生きるのがやっとだった事は言うまでもない。
更にその数年後、ゲーム屋に拾われるまでくすぶり続けるのだった。







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きょうはうっすい日記ですまんこってす。

2年位前、わしはメガネを新調しようと遠近両用というやつを選んだ。
加齢で近いトコが見えねェんだよ。
近眼はまったく進行してなかったんだが、老眼にあわせるために近眼の度を下げて遠くも見えにくくなった。
本末転倒気味だな。

そんでフレームを選ぶときに、レイバンのフレームの安さが目についてそいつを選んだ。
レイバンだぜレイバン。

でもレンズが分厚いのとフレームがくそ頑丈で重く、鼻孔潰れて鼻呼吸できん。
ブランド品などUnkoでも食えばよいと思った。

なのでレンズをバチッとはずして軽いのに変えたさ。
レンズに穴あけてツルを直に接続するやつにな。

加工の時、店員さんが、レンズの幅が狭いので難しいっすと言ってたのだが、まかせてみた。
するとバッチリうまく加工できて、店員さんがはじめてガンプラ塗った小学生みたいに喜んどったわ。


アレでんな。
メガネ作る時、年寄りは近視遠視で別々に作った方がよか。
そしてフレームはブランドなんぞ無視して軽いモン選んだ方がよかばってん。









毎日しょうもない絵をアップするのもアレなんで、今日はフツーの日記にしてみまっか。

もはや記憶も曖昧になっている情報で恐縮だが、その昔二子玉川園にナムコのナンジャタウンという遊園地があった。

 am2:40訂正:ご指摘いただきまして、二子玉川園はワンダーエッグだったそうです。
 ひょっとしたら更に記憶が間違ってるかも。まぁ浅草花屋敷ではないだろうけど。


私ゃ行ったコトないけど、日本テレネッツ時代の元同僚二名がバトルテックだか何だかのロボ対戦系ゲームをプレイしに行ったそうな。
すると暗い部屋に通されて、教官と名乗るコスプレネーチャンが指導してくれたらしい。

「ワタシを教官と呼ぶように!」

という口調で、あくまでなりきって接客しとったとか。
昔はただの遊園地でこのようなプレイが許されてたんだね。

そして元同僚達は、しばし教官の言葉責めとともにロボを操縦していた。
と、いきなり電源落ちトラブル!

「あわてるな!じきに回復する!」

などと、教官はトラブル中でもキャラを崩さない。
少しして電源回復し、元同僚達は引き続き言葉責めとゲームのダブルプレイを楽しく続けた。

ゲームは終わり、帰り際に教官が言う。

「さきほどは大変失礼いたしました……」

電源トラブルをわびて深々と頭を下げる教官。
ツンデレってレベルじゃねぇな。
結局こんなネタかよ。


昨日の絵とFlash。

120609kunoichi.html









昔話の時間です。

その昔、高校時代の先輩が8ミリカメラを持っていた。
8ミリフィルムという、アナログ撮影のやつね。
たしか秒間18コマだったと思う。

福助に似た先輩は、監督として手腕をふるっていた。
学生時代から映画仲間が集まって、なんか撮るベェと何本か映画を撮ったりしたのだ。
学生の頃は美術部員を強制的に招集できたが、卒業して社会人になると、おいそれと集まるのも難しい。
つまり役者がいない(とくに女)ので、サンダーバードみたいに人形の操演で映画を作った。

マクロ撮影という、超至近距離撮影で短いアニメを作ったりもしたっけ。
セルが手に入らないので、ルーズリーフのクリアファイルを切ってパンチ穴開けたので代用。
油性マジックで線画を描き、プラカラーで彩色したのだよ。
涙ぐましいアナログ技術の数々だった。

特撮でプラモのエンタープライズが飛んだ時は感動したなぁ。
次に感動したのは自分の描いた絵が動いてるトコ見た時。

今じゃPCで小学生でもそこそこの動画作れるけど、その昔はアナログ技術しかなかったんじゃ。

ちょいと引き出し探ってたら、昔映画のパンフ(先輩が作った)が出てきやがった。
コレが昔描いたアニメ用ロボのアタマ。


ダグラムに影響受けてた頃だな。
この時のロボを何かに使おうかと画策しとるです。


ガッチャマンOPでもう一枚見つけた記念。









ママと遊ぼうピンポンパンという番組が、その昔民放子供(主に幼児)番組の金字塔であった。
コレは月~土の毎日放映され、日本中の子供たちの眼差しを集めていた。
今では子供番組といえばNHK一択だが、その昔は民放でも対抗馬がいたのだ。
スタッフは叫ぶ。
「ょぅι゙ょを我が手に!」

'72年10月。
ピンポンパンの親、フジテレビ(汚染前)は、日曜朝も子供番組を制すために新番組を作った。
それこそ、若きアントニオ猪木を体操のおにいさんに抜擢した命知らずな番組。
「みんなあつまれキーパッパ!」である。
アントン体操という破壊的体操を叩き込まれた子供たちのその後は知らない。

このHPがくわしく歌詞まで載せている。

かつてはパンポロリン、ポンキッキ、カリキュラマシーンなどなど、子供番組は色々あった。
たいがいネタみたいなコーナーがあるんよね。
ポンキッキだけが2007年まで生き残り、今は全滅。
そうそう、ウゴウゴルーガというのもあったな。








Vガン以降のガンダムファンには、あまりピンとこないかもしれない昔話だす。

1979年に放映された機動戦士ガンダムは、まるでオモチャ至上主義に反逆するようなアニメとして名高い。
……という印象が、当時のファンの認識に多いんじゃなかろうか。

たぶんライディーンの見事な変形以降にはじまったであろう、劇中と同じ合体変形できるロボットが望まれたオモチャ市場。

ガンダムもまた、オモチャを売るための番組だった。
いやこれは当然の事で、非難のつもりはないよ。

しかし、合体変形を盛り込みながらも、大河ドラマをベースにしてスーパーロボット物からの脱却を計っていたようなストーリーに、一部のマニアは食いついた。

……だけで終わっちゃった。
視聴率は低迷、オモチャ売り上げは惨憺たるモノとなり、本放映は打ち切りの憂き目にあうのだ。

そしてアウトやアニメックのコラムに、オモチャ叩きの記事が多く散見されるようになった。

そのころの、高千穂遙のショッキングなコラムを覚えている人もいるだろう。
SF賛美ロボット全否定という、少なからずアニメファンに影響を与えた記事だったが、今現在の高千穂氏はあんまし覚えてないらしい(笑

その記事内で高千穂氏はスターウォーズをベタ誉めしてたが、アニメージュのコラムでは宮崎パヤオが逆にスターウォーズをコキおろしてるのも見たので、視点の違いがこんなにあるんだと大変勉強になった。

時は流れ、オモチャ販売不振で打ち切られたアニメが、今やプラモデルというオモチャ市場を牽引するフラッグシップとなっている。
ガンダムと言えばプラモ。

皮肉でんな。


昨日のラフ絵。









ファミコンに、うっでぃぽこというゲームがあった。
木でできたちんこではない。
パソゲーからの移植作。

内容はアクションアドベンチャー。
性転換できたりアイテム買わずに盗めたり、ほんわかしてるくせに毒のあるゲームだった。
らしい。
ちゃんとプレイしてねェので、詳細はわかんない(笑

たしか開発者は当時19~20くらいだったハズ。
株屋に支配されカイガイカイガイ言われて開発の妨害されずに、アイディアで商品化できた時代だね。

さて、このゲームの開発元は、試される大地に本社があったデービーソフト。
またの名をマカダミアソフト。
そう、国会で問題にもなった伝説のエロゲー「177」を作ったトコだ。
詳しくはYEKさん家へドゾ。

なんでも、試される大地で買わなきゃハドソンな会社がゲーム市場の独壇場だったのを憂いた人が創業したらしい。
色々とチャレンジャーだったんだね。

デービーソフトはもうないけど、ここからスピンアウトした会社は多々ある。

宛名職人を出してるアジェンダや、私が音素材で世話になってる素材辞典のデータクラフト。
アジェンダは、DSやWiiウェアでゲームを出し続けているのだ。

私はデービーソフトのゲームでは、レイラが好きだったな。
リミッター外した超速スクロールが売りで、アクションとしても秀逸なゲームだった。
とうとうクリアせず、人に貸したままだけど。

当時のファミコンゲームには珍しい、オネーチャンを全面に出したパッケージが印象的だった。



昨日の絵。









よもや、ぽっくんモグラーの動画が存在するとは……。
ニコ動おそるべし。

かつてアイジーエスという会社があった。(今存在する会社とは全然別物ね)
気象衛星ひまわり(現役当時)のプログラムを手がけたとかで、かつてはブイブイ言わせていたらしい。

しかしいつの頃からか業績は落ち続け、知らぬ間に倒産してしまった。

十数年前、私はここのゲーム部門に、約1年在籍していたのだ。
今日はその頃のお話。

時はファミコン戦国時代。
各ソフトハウスが、貧弱なグラフィック機能をこれでもかと豪華に見せる工夫にシノギを削っていた時。
ちょっと絵が描けると即ゲーム屋入社という、夢のような頃だ。

当時、デザイン事務所勤務で赤貧にあえいでいた私を救ったのは、小さいゲームメーカーがデザイナーを欲しがっているという私的な連絡。
むろん飛びついた。

それこそが、アイジーエスのゲーム部門。
マンションの1室にて数人で運営される、同好会みたいな部署だ。

コンピュータを触ったことさえなかった私だったが、ファミコンのCADやPCエンジンのエディタを操作する事に。
わずかに「ゲーム好き」という事だけが、コゲそうな左脳を支えていた。

他には、刑事大打撃とかマッキントッシュ講習とか、初のMSX2体験とかイベントてんこ盛り。
この話も長くなるので、いつかまたね。

私がラフを描いたゲームの1つが、ぽっくんモグラー。
ファミコン・ディスクシステムのもぐら叩きという、シンプルなゲーム。
こんなドマイナーなのがニコ動にアップされてるのが、驚きだわ。


ちなみに動作してるのをはじめて見た。
寂しい事に、アイジーエスのゲームのスタッフロールに私の名前はない。


昨日の絵。









今日はまたまた昔話で日テレより更に昔。
さぁ過去の世界を覗いてみよう。



日テレ以前にいた会社で、PCエンジンのヒューカード用ゲームに関わった時の事。
ビーチバレーのゲームで、その名もまんまワール○ビーチバレー。
実はく○おくんを解析なんでもない。

私の仕事は画面レイアウト。
リザルト画面ラフでねーちゃんの尻のアップを描いたのだが、採用されてるかはわからない。
なにせ発売前に辞めたからな。

これは外注に出すことが決まっていたのだが、なんと請け負ったのは中国の上海交通大学。
今でこそ中国市場は当たり前なのだが、当時はうさんくささが今の数10倍はあった。

開発中に天安門事件勃発。

果たして先方はどうなってるのかと、会社の担当が社内から国際電話。
ネットもケータイもなかった時代なのよ。

交通大学の開発責任者は、
「大丈夫です」
「何も起こっていません」
と言うのみ。
電話口に憲兵が張り付いてたらしいね。

開発が危ぶまれる中、同僚のメガネヒゲは、よりにもよって事件後に中国出張に1人で行かされた。
ネットがないと足で行かないとダメなのだ。

メガネヒゲ、現地では100元でネーチャンをなんでもない。
ガイド頼んだだけ、ガイド。
転がるほどに丸いお月さん見たのか、ギターをホロホロと弾く素知らぬ顔した船乗りさんに会えたかは不明。

そして無事に帰ってきやがった。
連中、何もボロ出さなかった、いや開発は一応順調だったらしい。

その後、私はフェードアウトしたので、開発タイトルが後日発売されたのを確認したのみ。
なんとニコ動にあるではないか。

く○おくんそっくりなんでもない。


ではフロ入ってくるかの。

am1:40 左右キャラを発見したので追加。
まさかこんなのにナンバリングふるとは(笑


昨日の絵。
上のもだが、4年前の絵の描き直し。









昔々、日本テレネットは3つの開発会社を持っていて、だいたいこんな構図。

新日本レーザー:エゥーゴ
ウルフチーム:アクシズ
RENO(後にライオット):ティターンズ

私はティターンズの新兵。
入社日早々、後にグリーンジャイアントと呼ばれる上司のバスク・オムからX68000版ヴァリス2への配属を命じられた。
やがて仕事っぷりが認められたのか、主役の優子のドットをまかされたのだのだが、この時はまだパンツは描いてない。
そのヴァリスの作業が終わると、既に開発中だったファイナルゾーン2チームに回される事になった。
本当ならゴールデンアックスで、ティリス・フレアを描いていたはずなんだけど。

そして、ファイナルゾーン2チームのあまりのやる気のなさに驚いた。
企画が出社しないし、メインプログラマは寝袋に詰まってるし、ゲーム画面はバイトの少年が1人でやってるし、唯一ビジュアルシーン担当の元アニメーターだけが話できそうな感じだった。

まるでアパッチ村だ!

                                       by.アパッチ野球軍

アパッチ村より離れた所で、ひたすらPCエンジンのプログラムをいじってた同期のプログラマA氏。
これがビジュアルシーンのプログラムだった。
他タイトルとの汎用だったような気もするが、覚えてない。

さて、企画が仕事せず仕様すらないというゲームだったが、グラフィックデータが揃うと一気に進行が加速。
データを受け取った寝袋プログラマは、マンガのように実力を発揮してゲームを作り上げた。
こんなモンでどうなるのかと思ったゲームは、およそ4ヶ月で無事にマスターアップ。

余談。
ファイナルゾーン2に登場する主役メカ、その名はN・A・P(ナップ)。
ニューエイジパワードスーツの略。

このゲームは元々PC用企画で、とてもオトナっぽい内容だった。
それがどういう経緯か、PCエンジンCD-ROMで開発されていたのだ。
ヴァリス2に続いて、パソゲータイトルをコンシューマゲームの波に乗せようと企画を変えたのだろうか。
PC版の企画書を見せてもらった時には、キャラクタとN・A・P以外は別物になってたと記憶している。

企画書は、元々ウルフチームの物だったはず。
ティターンズが、ガザCを横取りして改造したようなモンだ(笑

改変が過ぎたせいかは知らんけど、売れ行きはかんばしくなかった。

世の中にはファイナルファイナル言いながら14回出してるゲームもあるのに、ファイナルゾーン2はシリーズ化させる事なく2作目でファイナルになっちまったんじゃよ。







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