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大雷音寺日記ログです。
大昔はチンチンがキャッチコピーになったもんじゃ。



小さい子供の頃の感覚で、今は失われたものがある。
それはレンズの目ですわ。
なんの事かわかるまいが、ガキのセンシティブな感覚ですかのぅ。

幼少時、初対面の人がこちらを見る時の目、それがレンズのように見えたのだ。
探るような警戒するような。
今は全然わからんけど、たしかに人の目が変な形に見えた。
まるでアメージングストーリーやトワイライトゾーンみてぇだな。

ある日、仲良くなった子供の家を久しぶりに訪ねてみると、わしを覚えてない。
そしてその子の目がレンズの目だった。

あれは見知らぬものを見る時の目なのだろう。
まぁいつの間にか見えなくなったけど。


オマケ。面積が広いな。









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今日はちょっと宗教くさいオカルトめいた話でござんす。
おっさんの妄言とでも思ってくだされ。
ちなみに宗教は好かんので何にも属していない。

わしは輪廻転生はあると思うてるのだが、今存在する自分は仮の肉体として、精神も仮の存在だと思っている。

神道には一霊四魂という思想があり、4つの要素の魂、和魂(にぎみたま、調和)、幸魂(さきみたま、幸福)、荒魂(あらみたま、活動)、奇魂(くしみたま、霊感)を、直霊(なおひ)と言う霊がコントロールして、1人の人間を構成していると言う。
デッキみたいだな。

それはともかく。

今感じている自分という感覚が、いったいいつから存在するのか。
わしはこんな事を幼児の頃から感じている。

これ(自分)が存在する以前の世界とは何なのか。
自分の意識が長い輪廻の中ずっと存在してきたとしたら、それはいつからなのか。
誰もいない、何もない、そんな事があるのか。
ではいつ意識なるものが産まれたのか。
そしていつまで存在し続けるのか。
もし、実は意識がひとつのみで他は幻だったとしたら。
ここは本当は何の骨子もない、とてつもなく頼りない世界。

そんな事を考えて突き当たるのは、圧倒的な虚無である。
アドレナリンが吹き出す、ぞっとするような無の感覚。

そうなると、しょうもないわが人生でも存在するだけでありがたいかもしれん。
生きている今この時間だけは、間違いなく存在している事を感じる事ができる。
おっちんだ後は霊魂が5つに分かれ(欲望の消失か?)この意識ももっとものわかりのいい気分になっており、歩んだ人生を悔やんだり喜んだりしてるんじゃなかろうか。

そうなると人生一度きりというのは本当だ。
次に生まれるとしても、すべての記憶をリセットした別のまっさらな何かに変わっているだろう。
ではなぜまた生まれてくるのか?
たぶんやり直しじゃなかろうか。

昔、元自衛官の知り合いに自分という感覚の所在の大元についてつらつらと話したら「オレはさいしょからすべてあった、と思ってるよ」と答えが返ってきた。
いささか乱暴に思えるが、あんがい正解かも。










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